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#2 無条件の条件を考えてみる

日本人がシェアに対してそこまで積極的にならない理由のひとつとして、「努力神話」が背景にあるのでは、という小川さんの話です。

#1 はこちら

―努力神話とシェア、どうつながりますか。

小川:松村圭一郎さんという文化人類学者が『所有と分配の人類学』(世界思想社)という本を執筆していますが、「私のモノ」という所有の問題を論じる際には、分配や贈与についてセットで考えることが重要です。
私たちは、時間や労力を投入して生み出したモノ、あるいは時間と労力を投入して得た金銭を使って購入したモノの所有権は私に帰属すると考えます。これは、私の身体は私のモノであるというジョン・ロック以来の所有観によるもので、これ自体普遍的な考え方ではないのですが、詳しくは松村氏の本を読んでもらうとして(笑)、そうだとしても「私のモノ」を私が独り占めすべきかをめぐってはさらに議論すべき点が多々あるのです。
例えば、欧米では「ギフテッド」、天賦の才能という表現が日本よりも気軽に、そして多様な意味で使われます。そこでは天賦の才能を認める代わりに、それを社会に還元するべきだという責任も合わせて語られる。セレブが社会奉仕をしないとブーイングが起きたり。それに対して日本の人たちは、個人の富裕化や成功を「1%の才能と99%の努力」で理解することをより強く好み、手に入れたモノを誰かとシェアしたり、所有権を手放すことに対して、努力という観点から否定しがちであるように感じます。

―ようやく手に入れた物なのに、と。

小川:私のモノは、私の努力の結晶であるのに、なぜそれを他者と共有しなくてはならないのかが不思議なのです。

―ひとつ腑に落ちました! このOURS.サイトの創刊のことばとして、「いつかはマイホーム、じゃなくて」という趣旨のことを書いて、「いつかはマイホーム」に楯突いてたんですけど、マイホーム=努力の結晶で最終目標になってしまって、その家が外に開いてこないことが苦手だったんですね。マイホームでも賃貸の家でも実はどっちでもよくて、家を個人に閉じてしまう、「いつかは」という言葉に込められた意味が嫌だったんだと、今さらながらに気づきました。

小川:そうですね。これは私のモノだと言明するとき、それを自身が投入した労力や時間ではなく、「努力」という曖昧で、自身あるいは他者からの主観的な評価、価値観に何となく結びつけると、ますます他者に還元不可能な産物になります。そうすることで、所有することと与えること/分かち合うことのステージを切り分けてしまうのです。
私が出会ったタンザニアの商人たちは、それほど天賦の才を重視しませんが、偶発的な災難や不条理に満ち満ちた不確実な世界を生きているので、少なくとも獲得した成功やモノが個人の努力に多くを還元できるものであるとは考えていないように思います。

―そのようなアフリカの人々の貸し借りの感覚も気になります。

小川:頻繁にお金の貸し借りもしているんですけど、明確な返済期限がないことのほうが多く、お金を貸してる相手がいる人でも、自分がお金に困ると彼らから借金を取り立てようとするよりも、その時に余裕がある別の相手に新たに借金を申し込むことが常態化しています。自分だけでなく他者も不安定な暮らしをしていることを前提にしているので、貸したカネやモノが必ず返ってくることを過度に期待していないし、借りた方も返せるときが来たら返すといった形で、短期的な貸し借りの清算をルールにしていないと思います。

―借りても返さなくてもいい、僕らが思っている「貸し借り」とはだいぶ違ってますね。

小川:そこは人間関係をどう考えるかにも関係しますよね。日本の人たちは真面目で親切であり、ダメもと精神で何かをお願いすれば、最大限の無理をして引き受けようとしてくれる方々がとても多いように思います。
ただ、借金だけでなく、何かをしてあげたという「貸し」の感情や、何かをしてもらったという「借り」の感情もなるべく早くにきちんと清算しよう、あるいは、互いが与えたものと受け取ったものの均衡をそのつど保とうとしがちです。しかしどんな時にも貸し借りの清算や贈与の帳尻を合わせようとすれば、苦しいものになります。「私はこれだけの努力をしているのだから、あなたも同じだけの努力をすべきだ」「私はあの時これだけのことをしてあげたのだから、あなたも同じだけのことを私にしてほしい」。そして均衡が取れていないと感じると、「私ばっかり頑張っている」「私のほうが損をしている」という不満、あるいは「私ばかり迷惑をかけている」といった負い目を生み出します。
けれども、夫婦や友人などの偶然に助けあうことになった二者はいつも同じ状況に置かれてはいないし、同じ能力や資質、運に恵まれるわけでもない。与えたり貸したりは本質的には賭け事であり、いまは帳尻があわなくても、もしかしたら将来において何か想定外の形で帳尻があうかもしれないし、たとえ彼/彼女との間で最終的に帳尻が合わなくてもどこか別の場所であっているかもしれないと思うほうが、不条理な世の摂理に即しているかもしれない。

―もっと大きなところで帳尻なんて合ってくるんだと。

小川:そうですね。「借り」がない「借り暮らし」ということを考えてみるといいと思います。貸し借りの条件を真剣に考えすぎると成り立たないシェアや借り暮らしがあると思うんですよ。
シェアリング経済や協働型コモンズの創出のために、アクセスや受益者の条件を綿密に考えていく方法もありですが、逆に「無条件の条件」を徹底的に考えてみる方法も楽しいと思うのです。どこまで無条件でも大丈夫か、どこまで何も考えずにやっても崩壊しないかを真剣に考えていくということです。

―無条件の条件が適応できる範囲を考えると面白いですね。

小川:私は昔、長野に住んでいたのですが、「お気持ちを入れてください」って書かれた箱の置いてある無人の野菜販売所が残っていました。100円を入れる人も500円を入れる人もいるだろうし、きっと野菜だけ持っていく人もいるに違いない(笑)。儲けを期待していないのか、意外にも採算があうのかは不明ですが、タンザニアの路上商売にも似た部分があります。商人たちは客との交渉に応じて同じモノの値段を変化させますが、必ずしも金持ちからは問答無用でぼったくろうとし、貧乏人にはいつも安値で売るわけではないのです。富裕層にも落ち込む日はあるし貧困層にも幸運な日があり、あるモノにどれだけ支払ってもよいと思うか、対面する貧しい路上商人にどれだけ与えてもよいと思うかは、経済的余裕だけでなく、その時々の気分にも左右されます。商人たちはそれでいいのだと言う。誰かに同情して安く売ってしまった分は、その日ラッキーだった誰かがついうっかり多くを払ってくれることできっと採算があう。採算があわなくても私が騙されてあげたモノやカネは、誰かへと回っていくのだと。借りや貸しの清算も同じで、これもひとつの無条件の考え方だと思うのです。

2012年9月、タンザニアの住まい。写真提供/小川さやか

‎#3 ネットワーク的な社会のために


THE BORROWERS

借り暮らし、貸し借り、賃貸にどんな可能性がひそんでいるのか。多彩に活躍する方々へのインタビュー取材を通してその魅力に迫ります。いいところ、大変なところ、おもしろさ、面倒くささ…きっといろんなことが浮かび上がるはず。