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#3 ネットワーク的な社会のために

昨年、小川さんが出した新書『「その日暮らし」の人類学』では、2010年代のフィールドワークの成果も反映されて、ケータイが爆発的に普及したタンザニアの様子も書かれていました。ネットを通じたつながりが当たり前になった今、向こうでの価値観もまた変化しているのでしょうか。

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―ケータイとともに、電子マネーの送受金サービスが急激に普及した今のアフリカでは、借金の返済をすぐに求められるような状況になってきました。日本の状況に近づいているのかなと思う一方で、少額の電子マネーをどんどん回しあって、「誰もが誰かに金を貸しており、誰もが誰かに金を借りている」世界がむしろ広がっているとも書かれていて、IT技術も飲みこむアフリカのたくましさを感じたのですが。

小川:これまでのアフリカの都市社会の日常がある面ではネット社会とそんなに違わなかったんですよ。もともと「友の友達は、潜在的な友達」という世界観だったので、インターネット自体は彼らにとってそんなに衝撃じゃないと思います。

―友達といっても、別に身元を確かめあうような関係ではなかったとか。

小川:住民票や戸籍がある社会ではないし、都市のストリートで生きていくうえで匿名であることに特に不便が生じるわけではないです。「俺のことはジェイと呼んでくれ」と言うなら「ジェイ」だし、本名がジョゼフなのかジュマなのかは重要ではない。背が高いので「トール」という「アイコン」でも十分に社会は成立します。

―そこはまさにネット社会的です。

小川:彼らはもともとネットワーク的で流動性が高く、職場から職場、都市から都市へと転々と移動し、その場その場で仲間をつくっていく。だから、自分が生きてきた軌跡をたどるとものすごい数の仲間がいる。彼らこそが人生の保険になっているんですね。

―SNSを活用しながら、日本中を移動して仕事をつくっている、日本の若い世代にも似ています。

小川:確かに。そういう人間関係がどう成り立っているのかは興味ぶかいです。対面で知っている人とだけ結ぶ関係とはまた違ったリテラシーがあると思うんですけど。

―人をどこで信頼するかという基準が違ってきてますよね。

小川:「信頼」は私の研究テーマの一つです。アフリカの零細商売を扱った研究では、彼らの間の信頼の欠如が問題にされるのですが、「信頼できる人」と「信頼できない人」に分ける価値観とは違う「信頼」があるだけではないかとも思うのです。彼らに言わせると、誰でも信頼できるし、誰も信頼できない。

―どういうことでしょう。

小川:どんなにいい奴でも追いつめれば悪人になりえるし、どんなに悪い奴でも上手に付き合えば、それなりに信頼できるという感じですかね。つまり、信頼できるかどうかは私と彼/彼女のつきあい方しだい。でも考えてみるとあたりまえのようにも思います。
例えば、私は現地で多くの男性に家に遊びにおいでと誘われます。教科書的には信頼できるとわかった人としか会うべきではないとなります。では時間をかければ、信頼できる人間と信頼できない人間を見極められるようになるのでしょうか。疑わしいです。他人が腹の中で何を考えているかなんて知ることはできないし、人はいつでも豹変する可能性に開かれています。それでも私たちは他者と友人にも恋人にも家族にもなれます。わかることといえば、彼/彼女は意外とずるかったり弱かったりし、相容れないところもあるけれど、それぞれの場面でこうすれば何とか折り合いをつけられる、たとえ豹変したとしてもたぶんやり合えるといった感覚であり、それは頭の中で計算してできるものでもないはずです。
私の現地の友人には、泥棒稼業をしている者もいますが、彼らは私からは盗まず、嘘をついて小銭をせびるだけだし、携帯を盗まれた時にはあっという間に犯人を捕まえ、取り返してくれました。餅は餅屋ですね(笑)。

―どんな人なのかという属性が定まってるわけではなく、関係性の中から決まってくるんだから、まず人と人はフラットな関係でしかないんだと。どうしても日本だと、まだちょっと身元を見てしまいそうですね。

小川:文化人類学会の発表で聞いた話ですけど、フィリピンの乗合バスで、運転手がひとりしか乗ってないので、乗り合わせた乗客どうしでお金を集めたりとか自然に役割分担ができて、うまくバスは運行していくそうです。これが自家用車が普及して、快適なパーソナルスペースで移動できるようになったと思ったら、今度は大変な渋滞が発生して新たな不快が生じてきたと。しかも自己裁量で物事が進められる空間が当たり前になると、混沌とした人々のかかわりのなかから自然発生的に秩序をつくることができなくなっていく。こうしたことが今の社会全般に起きているんじゃないでしょうか。

―なるほど。

小川:資本主義経済に追い立てられつつ、各自が私のモノを所有するようになった。ただ、その結果、私的なモノや私的な空間が多くなりすぎて渋滞みたいなことが起きている。それもあって、いまふたたびシェアに光が当たりはじめたのかなと思います。

2011年3月、長屋の子どもたち。写真提供/小川さやか

―小川さんご自身はシェアについてはどんな意見ですか。

小川:面倒臭さと胡散臭さ込みで賛成ですよ。民間の車に相乗りする中国の配車アプリとかも気になりますし、これからホログラムやAIも当たり前になってきたら、私はどんな人類学をそこでやろうか! って楽しみですね。変化を飼いならしていく人類の知性に対して楽観的でありたいと思います。

―どんな社会になっても生きていけるって感じですね。

小川:『「その日暮らし」の人類学』にも書きましたが、自信を持つのに根拠は要らないし、きっと生きていけるはず。あやしげな宗教じゃないですよ(笑)。タンザニアの友人たちは、私よりずっと不安定な生活をしていますけれど、自信にあふれていますもの。未来は不確定なのだから、これからどうなるかわからないじゃないかって。

―謎の自信に満ちあふれているというやつですね。

小川:そうですよ、ただ生きていくための自信を持つのに何が必要でしょうか。無条件で無根拠な自信でいいのです!

文:竹内厚 写真:小檜山貴裕


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