山田義信(UR都市機構OB)

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#1 「重油がシャワーのように落ちてきて」

団地の生き字引のような方にお会いしたい。そんなOURS.編集部の勝手な希望に対応いただいたのが山田義信さん。日本住宅公団が設立された昭和30年、その翌年に公団職員となって以来、定年の60歳を迎えるまで、公団ひと筋で勤めあげたという、まさに公団の語り部とも言うべき方です。
「僕としては、在職中は仕事をしたな、やったなという実感がのこってますよ」という山田さんに、その目で見てきた団地の歴史をお聞きしました。
なお、日本住宅公団はその後、何度かの組織変更を経て、現在はUR(都市再生機構)となっています。

トップ画像は一般財団法人大阪府タウン管理財団制作「千里ニュータウン絵はがき」より


山田義信
日本住宅公団では、工事監理、設計、計画の各部署を歴任。住宅・都市整備公団 関西支社副支社長で60歳定年を迎えて退職。現在も建設会社の特別顧問として勤務しながら、大学のゼミなどで団地の設計思想についてレクチャーを行なっている。

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―山田さんが公団に入社された時代のことを教えてください。

山田:私が公団へ入りましたのは昭和31年6月1日、大阪支所で32人の大卒が採用されました。国鉄が切符切りからはじめるのと一緒で、その32人全員に現場監督を命ずると。私はね、設計屋になりたいと思って、大学の卒業設計では放送局を設計したりしていましたけど、それが公団に入るといきなり現場で泊まり込み、突貫工事ですから(笑)。現場監督として配属されたのは、千里山団地でした。

―千里ニュータウンがまだ開発される前の時代ですね。

団地の裏山の方に大きな土地があって、これから開発が進むようだという話は、当時から聞いていました。それが後の千里ニュータウンですね。私が千里山に配属された31年、その10月にはもう住民が入ってくることになってましたから、夜中でもコンクリートを打たないと入居に間に合わないわけです。現場にまかないのおばさんがいて、3食とも現場で食べて、たとえ何時だろうと「監督さんお願いします」と言われたら、現場に立ち会わなければいけない。

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千里ニュータウン研究・情報センター所蔵写真より

―とにかく入居に間に合わせるために24時間フル稼働で。

そうですよ。生コンなんていうのもなかったですから、現場でコンクリートを練って作らないといけない。杭を打つのでも当時は蒸気ハンマーなので、上からシリンダーの重油がシャワーのように落ちてきて、体中が真っ黒。それでも現場監督は確認する責任があるわけですから。最近、杭打ちの問題が話題になりましたけど、僭越ながら、公団住宅で支持層に達していない杭は1本もないと、私は自信を持っています。それくらい、1本1本を監督が現場でチェックしていましたので。

―設計の夢を抱いて入社した青年にはハードな現場ですね

ものすごい活気のある現場でしたよ。それから、設計課勤務を命ずるという辞令をもらったのは昭和38年の5月。今さら設計かよと思いましたね(笑)。当時は、建物設計係と団地係というふたつの係がありまして、はじめに配属されたのは団地係です。まず奈良の鶴舞団地を設計して、ついで中登美団地。今おそらくURには1692の団地があろうかと思いますけど、少なくとも私が設計をした団地は大小34ほどあります。

―そんなにたくさんあるんですね。

設計課勤務になった頃に、ちょっと見てこようと千里ニュータウンができる予定の畑と竹やぶの中を、長靴を履いて歩いていったことがあります。公共下水、インフラのない土地だったんですけど、そんな場所にニュータウンができたのは、やっぱり大阪万博の開催が決まったから。万博に向けてインフラが整備されたんです。

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団地の向こうに光り輝く大阪万博が見える。一般財団法人大阪府タウン管理財団制作「千里ニュータウン絵はがき」より

―大阪万博が昭和45年、千里ニュータウンのまちびらきが昭和37年です。

千里ニュータウンは1160ヘクタールの土地に、3地区、12の近隣住区で計画されました。近隣住区ごとに、銭湯や商店街、郵便局などを集約して、12の近隣センターを作ったんですね。日本にニュータウンとされるところが40カ所くらいありますけど、マスタープランから3つの住区に分けて、1160ヘクタールという大規模のところはありません。大阪府企業局が主体になって、この東洋一のニュータウンをどんな風に作っていくのかが課題になったわけです。

―公団、府営、それぞれに情報交換はしていたのですか。

情報は常に入ってきますし、あらゆる議論がぶつかって面白かったですね。大阪府はもう公団にはついていけんという感じでしたけど(笑)。設計の考え方も基本的には違いましたから。ただ、当時はまだ団地の教科書のようなものはありませんので、すべて自分たちで作るしかない。公団が千里ニュータウンで最初に手がけた津雲台は、各住棟を平行に配置していますけど、じゃあ、その住棟間の距離はいくらにすればいいのか、何の手がかりもないんですよ。

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文:竹内厚 写真:佐伯慎亮(山田さんポートレイト)

 
手探りではじまった千里ニュータウンの建設。次回、山田さんが携わった千里の団地について、さらに詳しく伺います。


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