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倉方俊輔(建築史家)
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千鳥橋~伝法〈大阪・此花〉

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大阪の下町といった風情の伝法。そこで見かけたのは…。

港と土木/古びた看板/軽やかな洋館建築

―鴉宮から徒歩3分。立派な洋館の屋根が見えてきました。

倉方:登記上ですが、1968年まで鴻池組の本社だった洋館建築です。今の感覚からすると、どうしてこの街に立派な洋館が建っているのか不思議な気がしますけど、江戸時代は、この伝法のあたりが大阪の入り口であり出口だったんです。海と川をつなぐ港ですね。鴻池の家は、ここで廻船問屋として水運を担ってたことが発祥で、だんだん土木、建設業へと進出していきました。

―運輸業から建設業へ。

以前は海運から陸運に切り替える際、人の手で大量に物を運ぶ必要がありました。最終的に1970年代に国際規格のコンテナが普及したことで、荷物の積み替えは大幅に減少しましたが。クレーンなどの機械が無かった江戸時代や明治時代であれば、なおさらです。建設も同じ。昔は加工する職人だけでなく、資材などを運ぶような人員が大量に必要だったのです。

―運輸業も建設業も、仕事の性格が共通していたんですね。

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その通りです。ですから、昔はこのあたりにも多くの人々が行き交っていたのでしょう。鴻池組旧館の建物を見る前に、そこにあるお店の看板に目をやりましょう。「麺類食堂」という文字の横に、右から左にうっすらと「御商談」と書かれているのが読み取れます。店の2階に客を上げて取引を行ったり、宴席を開いていたことが想像されますね。鴻池組の本店があり、そうした商談場所もあり、一種のビジネスエリアでもあったことがわかります。

―それにしても味のある看板です。

町家の袖壁の位置に看板をつけるのは、江戸時代からの伝統です。意外と江戸時代って、ついこないだのこと。現在と地続きなんですね。

―鴻池組旧本店の前まで来ました。

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大阪の中心部にも昭和戦前に建てられた優れた近代建築が多くのこってますが、これはさらに古くて1910年、明治43年にできました。その前年に東宮御所、現在の赤坂迎賓館が完成します。西洋に追いつけと日本が建築を学習し始めて、ようやく建てることができた宮殿ですね。それが重々しい明治の建築の「卒業設計」だとすると、鴻池組本館はその後の自由さの先取り。大正時代に流行するセセッションの軽快さで外観をまとめ上げ、2階内部の書斎には曲線的なアール・ヌーヴォーが取り入れられています。

―確かに洋館の重々しさはないですね。どこかシャレてます。

やっぱり、時代の先端をいってた企業なんですね、今だと建設や土木の業界って保守的なイメージがありますけど。今ものこる日本最古のアール・ヌーヴォーとされる建物が、北九州の旧松本家住宅で、同年の1910年の完成です。ふたつの建物には、同じ住友本店臨時建築部の久保田小三郎という人物が関わっていて、この事実は神戸大学名誉教授の足立裕司さんが突き止められました。住友本店臨時建築部というのは、今も大阪・北浜で威容を誇る三井住友銀行大阪本店をつくるためにできた組織ですね。

―洋館の隣には、立派な町家も。

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鴻池組の本宅です。外壁を漆喰で仕上げた、立派な土蔵造りですね。漆喰を塗ることもそうですし、大きなうだつが上がってることも、もとは耐火性を高めるための工夫ですが、時代とともに立派な家の象徴になってくるんですね。

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一般参加の方:鴻池組の建物は、道路に面してすぐ玄関の扉があるんですね。

倉方:確かに、間合いが全然ありませんね。いいご指摘をいただきました。だけど、西洋建築ってそういうものなんです。パリやロンドンの街並みが揃って見えるのは、道路と建物の壁面のラインが揃っているから。道路から引いた位置に建物を建てるのは、日本の建築、それも豪農の家や大名屋敷の建て方です。

―京都の町家も道路にびっしり面しています。

そうですね。ところが近代に入ると、都市部でも、大名屋敷のように道路に面していない、引いた建物が見られるようになりました。

―いろんなスタイルの建物が混在しているんですね。

建物の床下にある小さな空気抜きも凝っています。金属のグリルは、鴻池組のマークをもとにしたオリジナルのデザイン。その上に横に架け渡された石も面白くて、三本線のような彫り込みによって、アーチの最上部に使われる「キーストーン」と呼ばれる大きめの石を意匠化しています。伝統的な西洋建築の名残りと、直線的でモダンなデザインとの折衷です。あと10年早く建てられても、遅く建てられても、こうはならなかったでしょう。建築の時代性は、細部に宿ります。

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みおつくし/伝法漁港/下りもの

―鴻池旧本店から旧街道を挟んで、澪標住吉神社があります。

倉方:この澪標(みおつくし)が、大阪市の市章ですよね。市内のいたるところで見られて、初めて大阪に来た時には、あの暗号のようなものは何だと思いました(笑)。まあ、実際に、見えないものを伝えるサインで、水のこの部分には船が通れるだけの深さがありますよと告げる、水路の道標ですね。古い歴史を持つ水都大阪にふさわしい市章です。そして、その澪標を名前に抱く神社がここにあると。

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―港町、伝法の証ですね。

そうです。おっ、賽銭箱を見てください。神社でよく見られる三つ巴紋と澪標のマークが中央をとりあうような形で、せめぎ合ってますよ。

―どちらも中心を譲らない形で(笑)。

どちらも大事なんですね。…こちらの灯籠は、安政3年と刻まれているので幕末、1850年代のものですね。

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―港として賑わっていた時代が目に浮かぶような、まったく想像できないような…。

周りは住宅地なので、そこまで往時を想像するのは難しいですね。ただ、伝法港は今でも現役ですよ。そちらへ向かいましょう。

―澪標神社の前を走る旧街道を西へ歩いていきます。

カバヤ食品の工場が更地になってますね。戦前からの門だけが残されていたんですけど。

―このあたり、空き地が増えてますね。

そうですね、さすが街道沿いだけあって、お寺や大きな町家も見かけます。

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…さあ、伝法漁港です。漁業協同組合にドックもあって、小さいですけど本格的な漁港なんです。

―ここがかつて、大阪の玄関口だった。

「下りもの」という言葉、聞いたことありませんか。江戸時代、上方から大消費地の江戸へ、さまざまなものが水運で運ばれていきました。そのひとつの積み出し地がここ伝法だったんですね。

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―どんなものを運んだのでしょう。

そうですね、私の関心から言うと日本酒とか(笑)。灘の酒として有名な「剣菱」は、室町時代にさかのぼる日本最古の銘柄とされますが、大正時代までは兵庫の伊丹で醸造され、ここから大量に江戸へ運ばれていました。大阪が「食い倒れ」、京都が「着倒れ」とすると、江戸は「飲み倒れ」の街と言われるくらいに、江戸後期から居酒屋が名物でした。ただ、その頃の関東では旨い酒ができなかったので、伊丹や大阪の池田で作られた酒が最も珍重されました。しかも、江戸で飲むのが最上とされていたんですね。運ばれている間に、ほどよく熟成されるので。

―波に揺られて運ばれた日本酒、ウマそうです。

ですから、江戸に運んだ下り酒を、またこちらに戻して「富士見酒」なんて言って楽しむ風流もあったそうです。…なるほど、立て看板の情報によると、今の伝法漁港から、伝法川がずっと先まで流れて、鴉宮のところで正蓮寺川と交わっていたんですね。

―今や正蓮寺川も埋め立てられてましたけど、川の流れも意外と時代ごとに変わっていくんですね。

そうですね。このあたりでは、安治川の開削が17世紀、淀川が20世紀ですから。そうした川筋の変化を大きく受けてきた街ですね。

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澪標住吉神社では切り株、伝法港では駐禁の車止めと、ヤマサキタツヤさんのスケッチもだんだん独自路線に。

→倉方俊輔さんとの「さんかつ#03
伝法団地からも見えている伝法団地へ。伝法団地の一室に作られた、あの部屋にも入ります。


散歩と観察

デザイナー、アーティスト、建築家といった、独自のまなざしを持つ方々といっしょに町を歩きます。お題は、パブリックなモノやコト。公園、ベンチ、駅、図書館、路地、空き地、看板などなど、その観察眼はどこへ向けられるでしょうか。